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戦後70年~東京裁判とGHQ

 投稿者:fusann(63)  投稿日:2016年 9月 4日(日)21時53分2秒
返信・引用
  【戦後70年~東京裁判とGHQ】
老兵・マッカーサーはなぜ「日本は自衛の戦争だった」と証言したのか…
「老兵は死なず。ただ消えゆくのみ。神が示すところに従い自己の任務を果たさんと試みた一人の老兵として。さようなら」
 1951年4月19日。米上下院合同会議で、連合国軍最高司令官(SCAP)として日本を占領統治した陸軍元帥のダグラス・マッカーサーは半時間の退任演説をこう締めくくった。
 後に第37代大統領となる共和党上院議員のリチャード・ニクソンは演説を聴き、その感激は自著「指導者とは」にこう記した。
 「マッカーサーは古代神話の英雄のようだった。彼の言葉は力強く議場全体が魔術にしびれ、演説は何度も拍手で中断された。ある上院議員は『共和党員は感激でまぶたを濡らし、民主党員は恐怖でパンツを濡らした』と語った…」
 8日前の11日、マッカーサーは第33代米大統領、ハリー・トルーマンに全ての役職を解任され、帰国した。人生の黄昏を感じさせる演説だが、心中は闘争心でみなぎっていた。
マッカーサーは52年の大統領選に共和党から出馬し、民主党候補として再選を狙うであろうトルーマンを完膚なきまでに叩き潰す腹づもりだったのだ。演説でも「私の朝鮮政策だけが勝利をもたらす。現政権の政策は長く終わりのない戦争を継続するだけだ」とトルーマンを批判した。
 米国内のマッカーサー人気は絶大だった。愛機「バターン号」がサンフランシスコに到着した際は50万人以上が出迎え、ワシントン、ニューヨーク、シカゴ、ミルウォーキーの各地で行われたパレードには総勢数百万人が集まった。逆に「英雄」を解任したトルーマンに世論は冷ややかで、マッカーサーの第二の人生は順風満帆に見えた。
   × × ×
 米上院軍事・外交合同委員会はマッカーサーを聴聞会に召喚した。テーマは「極東の軍事情勢とマッカーサーの解任」。背景にはトルーマン政権に打撃を与えようという共和党の策謀があった。
マッカーサーは快諾した。大統領選の指名争いに有利だと考えたからだ。狙い通り、世界中のメディアが聴聞会の動向に注目し、事前から大々的に報じた。
 5月3日の聴聞会初日。証言台に立ったマッカーサーは質問に誠実に応じ、1950年6月に勃発した朝鮮戦争の経緯をよどみなく説明し続けた。
 質問者の共和党上院議員、バーク・ヒッケンルーパーは「赤化中国を海と空から封鎖するという元帥の提案は米国が太平洋で日本を相手に勝利を収めた際の戦略と同じではないか」と質した。
 マッカーサーの戦略の正当性を補強するのが狙いだったが、マッカーサーの回答は予想外だった。
 「日本は4つの小さい島々に8千万人近い人口を抱えていたことを理解しなければならない」
「日本の労働力は潜在的に量と質の両面で最良だ。彼らは工場を建設し、労働力を得たが、原料を持っていなかった。綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、スズがない、ゴムがない、他にもないものばかりだった。その全てがアジアの海域に存在していた」
 「もし原料供給を断ち切られたら1000万~1200万人の失業者が日本で発生するだろう。それを彼らは恐れた。従って日本を戦争に駆り立てた動機は、大部分が安全保障上の必要に迫られてのことだった」
 会場がどよめいた。証言通りならば、日本は侵略ではなく、自衛のために戦争したことになる。これは「侵略国家・日本を打ち負かした正義の戦争」という先の大戦の前提を根底から覆すどころか、東京裁判(極東国際軍事裁判)まで正当性を失ってしまう。
もっと言えば、5年8カ月にわたり日本を占領統治し「民主化」と「非軍事化」を成し遂げたというマッカーサーの業績までも否定しかねない。
 この発言は共和党の期待を裏切り、激しい怒りを買った。マッカーサー人気はこの後急速にしぼみ、大統領の夢は潰えた。
   × × ×
 なぜマッカーサーはこのような証言をしたのか。
 日本の「自衛戦争」を認めた理由についてマッカーサーは回顧録でも触れていない。だが、マッカーサーが朝鮮戦争でどのような戦略を描いたかを紐解くと答えが見えてくる。
 マッカーサーは、朝鮮戦争を通じて北朝鮮の背後にいるソ連、中国(中華人民共和国)という共産主義国の脅威を痛感した。
 朝鮮と台湾が共産主義国の手に落ちれば、日本も危うく、極東での米国の陣地は失われ、防衛線は米西海岸まで後退しかねない。それを防ぐには朝鮮半島を死守するしかない。この見解は国務省や国防総省にも根強くあった。
ところが、トルーマンは、北大西洋条約機構(NATO)加盟国が「中ソが徹底的に対立すれば、欧州はソ連の報復攻撃を受けかねない」と動揺したこともあり、北緯38度線付近で「痛み分け」にする策を練っていた。
 これに対して、マッカーサーは中国を海と空で封じ込め、毛沢東率いる共産党政権を倒さねば、将来の米国の安全を脅かすと主張して譲らなかった。これがトルーマンがマッカーサーを解任した理由だった。
   × × ×
 マッカーサーの主張は、その後の歴史をたどっても説得力がある。ただ、朝鮮半島を死守しつつ、大陸の中ソと対峙するという戦略は、日本政府が独立を守るために日清戦争以来とってきた戦略と変わりない。
 「過去100年に米国が太平洋地域で犯した最大の政治的過ちは共産勢力を中国で増大させたことだ。次の100年で代償を払わなければならないだろう」
マッカーサーはこうも語った。これは「米国は戦う相手を間違った。真の敵は日本ではなくソ連や中国共産党だった」と言っているのに等しい。
 マッカーサーは日本の占領統治と朝鮮戦争を通じて日本の地政学的な重要性に気づいたに違いない。「自衛戦争」発言は、自らの戦略の優位性を雄弁に語るうちにポロリと本音が出たとみるべきだろう。
   × × ×
 他にもマッカーサーは重要な証言を残した。
 民主党上院議員、ラッセル・ロングが「連合国軍総司令部(GHQ)は史上類を見ないほど成功したと指摘されている」と称えたところ、マッカーサーは真っ向から否定した。
 「そうした評価を私は受け入れない。勝利した国家が敗戦国を占領するという考え方がよい結果を生み出すことはない。いくつか例外があるだけだ」
「交戦終了後は、懲罰的意味合いや、占領国の特定の人物に対する恨みを持ち込むべきではない」
 それならば日本の占領統治や東京裁判は一体何だったのかとなるが、これ以上の追及はなかった。
 別の上院議員から広島、長崎の原爆被害を問われると「熟知している。数は両地域で異なるが、虐殺はどちらの地域でも残酷極まるものだった」と答えた。原爆投下を指示したトルーマンを批判したかったようだが、原爆を「虐殺」と表現した意義は大きい。
 このように3日間続いた聴聞会でのマッカーサー証言は日本人を喜ばせたが、ある発言で一転して激しい怒りと失望を招いた。
 「科学、芸術、神学、文化においてアングロサクソンが45歳だとすれば、ドイツ人も同程度に成熟していた。日本人はまだわれわれの45歳に対して12歳の少年のようである」
ただ、この発言の前後で「学びの段階に新しい思考様式を取り入れるのも柔軟だ。日本人は新しい思考に対して非常に弾力性に富み、受容力がある」とも述べている。「日本人の柔軟性」をよい意味で少年に例えたといえなくもない。
 日本人は大戦で勇猛に戦い、米軍を震撼させながら、敗戦後は驚くほど従順でマッカーサーの治世を称賛した。マッカーサーにはその姿が「12歳の少年」に映ったのではないか。
   × × ×
 1952年7月の共和党大会で、かつての部下で欧州戦線の最高司令官を務めたドワイト・アイゼンハワーが指名され、1953年に第34代大統領に就任した。
 マッカーサーは引退し、ニューヨークのホテル・ウォルドーフ・アストリアのスイートルームで愛妻ジーンと余生を過ごした。軍人時代と同じく常に居間を歩き回り、昼寝を欠かさない規則正しい生活を送った。
マッカーサーを尊敬するニクソンは、GHQ民政局長だったコートニー・ホイットニーを通じてホテルの自室に招かれ、その後何度も教えを請うた。ただ、欠点も見抜いていた。
 「マッカーサーの最大の過誤は政治的野心を公然と示し、軍事的声望を政治的資産に転じようとしたことだった…」
 1964年4月5日午後2時39分、マッカーサーはワシントン近郊のウォルター・リード陸軍病院で84年の生涯を閉じた。ポトマック川岸は桜が満開だった。
 元首相、吉田茂は産経新聞に「天皇制守った恩人」と題した追悼文を寄せた。昭和天皇も米大統領宛に弔電を打った。葬儀は8日に米議会議事堂で営まれ、吉田も参列した。
毀誉褒貶(きよほうへん)の激しい人生だった。マッカーサーの評価は日本でもなお定まらない。ただ、上院聴聞会での証言は軍人マッカーサーの偽らざる思いであり、一種の懺悔(ざんげ)だったのかもしれない。その遺体はバージニア州ノーフォークのマッカーサー記念館にジーンとともに葬られている。
(敬称略)
=おわり
     ◇
 この連載は石橋文登、花房壮、峯匡孝、加納宏幸、森本充、今仲信博、田中一世が担当しました。
 
 

日本国憲法は米国製

 投稿者:fusann(63)  投稿日:2016年 9月 4日(日)21時51分31秒
返信・引用
  「日本国憲法は米国製」を認めぬ護憲派の倒錯 論点すり替え陳腐な反論

                                                2016.9.1 【阿比留瑠比の極言御免】
もう旧聞に属する話かもしれないが、大事な問題なのでやはり取り上げたい。バイデン米副大統領が8月15日の演説で、共和党の大統領候補、ドナルド・トランプ氏を批判してこう発言した件である。

 「(日本が)核保有国になり得ないとする日本国憲法を、私たちが書いたことを彼(トランプ氏)は知らないのか。学校で習わなかったのか」

 米政府の要人中の要人、ナンバー2である副大統領が公の場で、米国が日本国憲法を起草したことを明言したのだ。事実関係からすれば当然のことではあるが、憲法の成り立ちをめぐる戦後の欺瞞が、通力を失っているのを感じた。

 何しろ、米国が主導した連合国軍総司令部(GHQ)は戦後の対日占領期、GHQが憲法起草に果たした役割についての一切の言及や批判を検閲し、削除または掲載発行禁止の対象としていたのである。
 米国が隠したため、まさにわれわれ日本国民が「学校で習わなかった」ことを、米副大統領が自ら表明したのだから興味深い。嘘やごまかしは、いつかほころびていくものだ。
反論にならぬ反論
 だが、予想はついたものの、このバイデン発言に対する日本国内の事実を認めたがらない「護憲派」の反応は実に陳腐だった。
「米国が書いたというのは、副大統領としてはかなり不適切な発言だ」
 民進党の岡田克也代表は8月18日の記者会見で早速、こう批判していた。ただ、岡田氏は同時に「もちろんGHQが中心になって草案を作り…」と認めているのである。
 ならば何が気にくわないのか。岡田氏は「最終的には、国会でも議論して作った」と指摘し、次のように結論付けた。
 「草案を書いたかどうかというよりは、それが日本国憲法になったプロセス、その後70年間、国民が育んできた事実の方がずっと重要なことだ」
 バイデン発言を不適切と言いつつ、事実関係は否定できずに、論点をすり替えている。とりあえず文句をつけてみたというだけでは、反論になっていない。
 また、8月17日付朝日新聞朝刊の1面コラムも、バイデン発言について「無神経というほかない」「発言は傲慢ともとれる」などとかみついていたが、やはり次のように認めていた。
 「日本国憲法が米国主導で生まれたのは事実だ」
 不都合な真実からは目をそらせていたいのに、本当のことを言うなんてやぼだと怒っているのか。コラムは、こうも書いていた。
 「『アメリカから押しつけられた憲法だから改憲すべきだ』と主張する人たちが歓迎しそうな話だ」
確かに筆者も、現行憲法は米国から押し付けられたものだと思っているし、その事実は憲法改正を目指す一つの理由にはなると考えている。
 ただし、バイデン発言をとても歓迎する気になどなれない。かつて自国を占領していた国の政府要人に「私たちが書いた」と堂々と主張されるような憲法を戦後70年以上がたってもそのままいただき、それを野党第一党の代表が「育んできた」などと胸を張る現状がひたすら恥ずかしい。
 GHQ検閲の呪縛
 憲法が米国製だからといって、中身を全否定する必要はないだろう。とはいえ、GHQ検閲の呪縛にいまだにとらわれてか、論点をずらして憲法の成り立ちは関係ないと言いくるめるような論調には、ちょっとついていけない。(論説委員兼政治部編集委員)
 

Re: 「吉野寺山之賦」の件>御礼

 投稿者:A2lhqXO6Vz  投稿日:2013年12月 4日(水)16時58分17秒
返信・引用
  > No.80[元記事へ]

And to think I was going to talk to soemone in person about this.
 

Re: (無題)

 投稿者:TXarJ8Cm  投稿日:2013年12月 4日(水)16時13分7秒
返信・引用
  > No.86[元記事へ]

Great thikning! That really breaks the mold!
 

(無題)

 投稿者:語り部のfuusan  投稿日:2013年 1月13日(日)20時56分0秒
返信・引用
  1月5日にFAXが来ました。 それは山田 勲さんからでした。

NHK E テレ特集「日本人は何を考えてきたのか」
 第10回 昭和維新の指導者たち ~北 一輝・大川周明と2.26事件

 1月13日(本日)午後 ⇒ 22時から23時20分
(対談) 田原総一朗、山田 勲、 他 大川塾

 

國体詩

 投稿者:fuusan(58)  投稿日:2012年 6月17日(日)12時01分28秒
返信・引用
   國 体 詩
大正十年八月初旬夫妻相携謁伊勢大廟賦所懷
    以自勵矣塾生稱此詩曰國體詩               岩崎行親

邈兮二千六百秋(ばくたり.二千(にせん).六百(ろっぴゃく).秋(しゅう).)
日東肇国基神籌(日東(にっとう).国(くに)を肇(はじ)むる.神(しん)籌(ちゅう)に.基(もと)づく.)
国体之優風土之美(国体(こくたい)の優(ゆう).風土(ふうど)の.美(び).)
宇内萬邦無匹儔(宇内(うだい).萬邦(ばんぽう).匹儔(ひっちゅう).無(な)し.)
豊葦原之瑞穂国(豊(とよ)葦(あし)原(はら)の.瑞穂(みずほ)の.国(くに).)
是我子孫君臨域(是(これ)我(わが).子孫(しそん).君(くん)臨(りん)の.域(いき).)
行兮爾就而治之(行(ゆ)け.爾(なんじ)就(つ)いて.之(これ)を.治(おさ)めよ.)
宝祚天壤無窮極(宝(ほう)祚(そ).天(てん)壤(じょう).窮極(きゅうきょく).無(な)からん.)
神訓炳乎如日星(神訓(しんくん).炳乎(へいこ)として.日星(につせい)の.如(ごと)し.)
施之萬世民心寧(之(これ)を.萬世(ばんせい)にほどこして.民心(みんしん).寧(やす)し.)
三種神器教君道(三種(さんしゅ)の.神器(じんぎ).君(くん)道(どう)を.教(おし)ふ)
伝之無窮帝徳馨(之(これ)を.無窮(むきゅう)に伝(つた)へて.帝徳(ていとく).馨(かんば)し.)
我皇神孫無姓氏(我(わ)が皇(こう).神孫(しんそん).姓氏(せいし).無(な)し.)
日本為家君父比(日本(につぽん)を.家(いえ)と為(な)し.君(きみ).父(ちち)に.比(ひ)す.)
億兆齊仰一家君(億兆(おくちょう).齊(ひとし)く仰(あお)ぐ.一(いち).家訓(かくん).)
義乃君臣情父子(義(ぎ)は.乃(すなわ)ち君臣(くんしん).情(じょう)は.父子(ふし).)
欲孝親者須忠君(親(おや)に.孝(こう)せんと欲(ほっ)する者は須(すべか)らく.君(きみ)に.忠(ちゅう).すべし.)
欲愛国者須愛君(国(くに)を.愛(あい)せんと欲(ほっ)する者(もの)は須(すべか)らく.君(きみ)を愛(あい)すべし.)

○忠孝一致君国一(忠孝(ちゅうこう).一致(いっち).君(くん).国(こく).一(いつ).)
我国憲法存古文(我(わ)が国(くに)の.憲法(けんぽう).古文(こぶん)を.存(そん)す.)
皇道元来民為重(皇道(こうどう).元来(がんらい).民(たみ)を.重(おも)しと.為(な)す.)
中世封建一統紊(中世(ちゅうせい).封建(ほうけん).一統(いっとう)を.紊(みだ)る.)
党閥跋扈激民心(党閥(とうばつ).跋扈(ばっこ).民心(みんしん)を.激(げき)し.)
聖君宸憂庶民共(聖(せい)君(くん).宸憂(しんゆう).庶民(しょみん).共(とも)にす.)
歴代聖主好行仁(歴代(れきだい)の.聖主(せいしゅ).好(この)んで.仁(じん)を行(おこな)ふ.)
忠良補佐民帰淳(忠良(ちゅうりょう).補佐(ほさ)して.民(たみ).淳(じゅん)に.帰(き)す)
況復明治聖天子(況(いわ)んや復(また).明治(めいじ)の.聖(せい).天子(てんし).)
垂範百王感九垠(範(はん)を.百王(ひゃくおう)に垂(た)れて.九垠(きゅうこん)を.感(かん)ず.)
近歳狂風捲欧土(近歳(きんさい).狂風(きょうふう).欧土(おうど)を.捲(ま)き.)
大厦驟破独墺魯(大厦(たいか).驟(たちまち)破(やぶ)る.独(どく).墺(おう).魯(ろ).)
或唱平等或民主(或(ある)ひは.平等(びょうどう)を.唱(とな)へ.或(ある)ひは.民主(みんしゅ).)
或説共産或廃武(或(ある)ひは.共産(きょうさん)を.説(と)き.或(ある)ひは.廃武(はいぶ).)
一利一害属空論(一利(いちり).一害(いちがい).空論(くうろん)に.属(ぞく)す.)
畢竟悪政構怨府(畢竟(ひっきょう).悪政(あくせい).怨府(えんぷ)を.構(かも)ふ.)
国各有粋開和平(国(くに).各(おのおの).粋(すい)有(あ)つて.和平(わへい)を.開(ひら)く.)
失之者衰存者栄(之(これ)を.失(うしな)ふ者(もの)は.衰(おとろ)へ.存(そん)する者(もの)は.栄(さか)ゆ.)
新説何必尽荒誕(新説(しんせつ).何(な)んぞ.必(かなら)ずしも.尽(ことごと)く.荒誕(こうたん)ならんや.)
他山石足攻我瓊(他山(たざん)の石(いし).我(わ)が瓊(たま)を.攻(みが)くに.足(た)れり.)
採長補短祖先法(採長(さいちょう).補短(ほたん)は.祖先(そせん)の.法(ほう).)
吸収同化我人情(吸収(きゅうしゅう).同化(どうか)は.我(わ)が.人情(にんじょう).)

○鳴呼美哉日東君子国(鳴呼(ああ).美(び)なる哉(かな).日東(にっとう).君子(くんし).国(こく).)
上下同心一其徳(上下(しようか).心(こころ)を同(おな)じうして.其(そ)の.徳(とく)を.一(いつ)にす.)
鳴呼優哉萬世一系君(鳴呼(ああ).優(ゆう)なる哉(かな).萬世(ばんせい).一系(いつけい)の.君(きみ).)
列聖相承垂功勲(列聖(れつせい).相(あい)承(う)けて.功(こう)勲(くん)を.垂(た)る.)
辛酉之夏炎蒸酷(辛酉(しんゆう)の夏(なつ).炎蒸(えんじょう).酷(はげ)し.)
来謁大廟脱汚俗(来(きた)つて.大廟(たいびょう)に謁(えつ)して.汚俗(おぞく)を.脱(だつ)す.)
清風颯々掃心塵(清風(せいふう).颯々(さつさつ).心塵(しんじん)を.掃(はら)ひ.)
霊流潺々洗煩燠(霊流(れいりゅう).潺々(せんせん).煩燠(はんのう)を.洗(あら)ふ.)
我幸得為此土氓(我(わ)れ.幸(さいわい)に.此(こ)の土(くに)の.氓(たみ)為(た)るを.得(え)て.)
六十餘年浴恩栄(六十(ろくじゅう).餘年(よねん).恩栄(おんえい)に.浴(よく)す.)
独耻寸毫未酬国(独(ひと)り耻(は)づ.寸毫(すんごう)も.未(いま)だ.国(くに)に.酬(むく)いざるを.)
残躯聊期供犠牲(残躯(ざんく).聊(いささ)か期(き)す.犠牲(ぎせい)に.供(きょう)するを.)
願頼皇天神霊威(願(ねが)わくは.皇天(こうてん).神霊(しんれい)の.威(い)に.頼(よ)りて.)
磨励心鏡断正違(心鏡(しんきょう)を.磨(ま)励(れい)して.正違(せいい)を.断(だん)ぜん.)
願吸聖域一団氣(願(ねが)わくは.聖域(せいいき).一団(いちだん)の.氣(き)を.吸(す)ふて.)
涵養精神足有為(精神(せいしん)を.涵養(かんよう)して.為(な)す有(あ)るに.足(た)らん.)

 ○註
一.普通朗吟には、我国憲法存古文までの二十句と鳴呼美哉、鳴呼優哉の四句を加えた國体 詩抄録を用うる。
二.本詩の読み方は総て作者の遺稿による。
三.本詩は合吟に際し、斎唱に便であるよう、句点を附した。


 

Re: 何時から?

 投稿者:fuusan(57)  投稿日:2011年 4月17日(日)23時14分53秒
返信・引用
  > No.83[元記事へ]

私もご案内をいただきましたが、今のところ連絡待ちです。

昨年から、すべての団体からの引退をしようと考えておりまして
例外なくその方向で進めているところです。

こちらの事務は、現在、別府先生と種子島先生がなさっておられます。
 

何時から?

 投稿者:inoken  投稿日:2011年 4月17日(日)11時30分6秒
返信・引用
   案内いただきました。
岳東先生墓前祭、何時からでしたっけ?
 

引用掲載

 投稿者:fuusan(57)  投稿日:2011年 4月12日(火)23時11分13秒
返信・引用
  陳亮出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

陳 亮(ちん りょう、1143年 - 1195年)は、南宋の儒学者。字は同甫・同父。号は龍川。浙江省永康の人。事功派永康学派の雄、朱熹の論敵として知られる。

目次
1 事績
2 学風
3 著作
4 参考


事績
 若い頃から才気煥発で好んで兵を談じ、筆を下せばたちまち数千言をなす、という人であった。孝宗の時代に宋は金国と和議を結ぶが、陳亮は世の人が安逸に流れることを恐れ、「中興五論」を皇帝に提出し、中国が蛮夷からこうむった恥辱をすすぎ中原の失地を回復しなければならないと論じ、主戦論を唱えたが容れられなかった。この時から朝廷からは退いて数十年間は学問に専念し、門人を多く育てた。淳煕5年(1178年)には再び上書して大いに国事を極言した。光宗即位の初め(1192年)、すでに退位した孝宗との間の典礼問題について礼部に諮問があったさい、陳亮は光宗が父・孝宗より妃の李氏を重んじることを暗に肯定したので光宗は大いに喜び、陳亮を僉書建康府判官に任命されたが、職に就く前に急死した。文毅と諡される。

学風
 経綸事功をもっとも貴び、孟子以降の人としては王通を推賞する。当時の儒者がいたずらに正心誠意を説くばかりで実効性のある政策に寄与しないことを難じ、慷慨していた。したがって朱熹とは意見が合わず、朱熹も陳亮を粗豪と評した。ただし朱熹は陳亮が没した後に、「龍川陳先生之墓」の碑銘を書いており、交友は終始続いていたと考えられる。その学友に倪樸がおり、門下には喩?、喩南強、呉深、林慥、陳頣など、いわゆる永康学派の儒者がいる。 日本では長野豊山が「陳亮の議論は奇怪でその学問は危ういところがあるが、一世の豪傑というべきだ」と評し、佐藤一斎は「陳龍川の酌古論は王陽明・方孝孺の文に匹敵し、識見に富んだ名文だ」と書く。西郷隆盛も陳亮を好み、「畏天愛民」「推倒一世之智勇 開拓萬古之心胸」などの節を愛したという。

 

Re: 「吉野寺山之賦」の件>御礼

 投稿者:fuusan(57)  投稿日:2011年 4月12日(火)07時12分45秒
返信・引用
  > No.80[元記事へ]

サンチョさんへ

 少しは御役にたてたようで良かったです。これからも宜しくお願い申し上げます。
また、わたしは先生ではないので、恥ずかしいです。。。 ^^;)

> 私は、"フォト蔵"という写真共有サイトに登録をしておりまして、そこに現在いくつか寺山公園の写真を掲載しております。もし気が向かれたらご覧頂ければ幸いです。「寺山公園」でサイト内の検索をいただければすぐに見つかると思います。なお、写真の腕は全くのド素人であります。
>

サイト、拝見させていただきます。
 

「吉野寺山之賦」の件>御礼

 投稿者:サンチョ  投稿日:2011年 4月11日(月)20時14分59秒
返信・引用
  inoken先生、fuusan先生、両先生へ。
お手数をお掛けしました。誠に恐縮です。

私方、調べ方が足りなかったようです。「岩崎行親」で検索し、鹿児島県立図書館に関連書籍がある事を確認致しました。失礼をば致しました。ただ、fuusan先生に「龍川」が、「陳龍川」らしい事を教えて頂いた事だけでも勉強となりました。
「陳龍川」で調べておりましたら、「陳亮」でwikipediaに掲載があることに気が付きました。「陳亮(ちん りょう、1143年 - 1195年)は、南宋の儒学者。... 号は龍川。」「西郷隆盛も陳亮を好み、「畏天愛民」「推倒一世之智勇 開拓萬古之心胸」などの節を愛したという。」は私には少々意外な内容でした。

私は、"フォト蔵"という写真共有サイトに登録をしておりまして、そこに現在いくつか寺山公園の写真を掲載しております。もし気が向かれたらご覧頂ければ幸いです。「寺山公園」でサイト内の検索をいただければすぐに見つかると思います。なお、写真の腕は全くのド素人であります。

突然の書き込みに対して真摯にお答え頂いたことに感謝致します。また、お騒がせして申し訳ありませんでした。
では、失礼致します。
 

寺山の賦

 投稿者:fuusan(57)  投稿日:2011年 4月11日(月)00時29分36秒
返信・引用
  登攀する藩州吉野山 雲晴れ風静かにして天関を開く
茫々たる下界杏杓小なり 桜岳錦江指顧の間
吉野の名我が耳を驚かす 聯想する延元蒙塵の史
姦臣柄を執って国家を危くす 国家尤要す賢良の士
知勇を推倒す一世の雄 心胸を開拓す万古の忠
南洲龍川今何れの処で 寒煙蒼々ニ翁を憶う
一朝虎嘯すれば天地を動かす 其の志行われずんば退いて器を養う
英雄の行蔵素より斯くの如し 燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや
此の日感懐言うべからず 樹下薪を焚いて清樽を開く
風景佳絶感盡くる無し 山頂天を祭りて心魂を滌う
               (吉野寺山之賦・岩崎行親)
寺山公園

※この石碑について、下記のような説明がなされています。
詳細については、鹿児島県立図書館に行かれて、調べられたら
いかがでしょうか。
解釈等については個人の記憶違いや思い違いもありますので、、、すみません。


________________________________________
■所在地
吉野町 寺山
■解説
  吉野台地のなかで、もっとも高いところにある寺山公園の大崎展望台に立つと、鹿児島湾と雄大な桜島が目の前にせまってきます。晴れた日は、霧島や開聞岳も眺められるほど景色のよいところです。
  公園の広場には「寺山の賦」の碑が立っています。
  この碑には漢詩が刻まれています。これは第七高等学校造士館(現在の鹿児島大学)の最初の館長であった岩崎行親が、一九二七(昭和二)年、寺山から眺めたすばらしさと、吉野台地で開墾にはげんだ西郷をしのんで詠んだものです。岩崎は教育者として西郷隆盛を大へん尊敬していました。とくに西郷の「敬天愛人」の考え方を理想像として、毎日の学習にとり入れたといわれています。
(出典:「鹿児島市の史跡めぐりガイドブック-四訂版-」鹿児島市教育委員会・平成11年3月発行)
 

Re: 「吉野寺山之賦」について

 投稿者:fuusan(57)  投稿日:2011年 4月10日(日)11時33分37秒
返信・引用 編集済
  > No.76[元記事へ]

inokenさん御久し振りです

さて、「龍川」という方は、西郷南洲翁が詩歌の面で尊敬され、
後の「敬天愛人」のもとになったというのが「陳 龍川」の詩、教え、影響などらしい。
この方ではないかと私は思っていますが、確証はないです。
 

正解です

 投稿者:inoken  投稿日:2011年 4月 9日(土)10時47分27秒
返信・引用
   質問先は正解です。小生も不勉強ですが
誰かがお答え致しましょう。
 

「吉野寺山之賦」について

 投稿者:サンチョ  投稿日:2011年 4月 7日(木)20時52分37秒
返信・引用
  一つお伺いしたい事があります。
先だって寺山公園に行ってまいりまして、そこで「吉野寺山之賦 岩崎行親」を拝見いたしました。
これを写真に納め自宅にて、字引を引き引き調べますに、なかなか浅学菲才の身にてよくわかりません。
例えば「南洲龍川」の「南洲」は、西郷南洲翁と思いますが、さて「龍川」はさっぱり見当がつかずネットにて「丸山龍川 」というそれらしき名を見つけましたが、さて全くの見当違いかも分かりません。
何かこの「吉野寺山之賦 岩崎行親」を解釈するための手引き書等を教えて頂けますならば幸いであります。
この詩碑に関しての疑問は、こちらに伺えばよろしいのではと勝手ながら判断致しましたが、間違っておりましたらお許し下さい。
 

心の位

 投稿者:fuusan  投稿日:2010年10月30日(土)09時47分36秒
返信・引用
  ●心の位

 郷中教育(ごじゅう きょういく)は、
  金(カネ)の価値を「無」にして、それを前提にしていた。


●郷中(ごじゅう)は中心がある

 組織を良くするためには中心になるリーダーが大事である、必ず良くなる。

 1.人に好かれる

 2.度胸がすわる
  腹が決まっていること(大事な時に逃げている者が多い)
  死んだから、、、死んでいない

 3.先が見えないといけない
  先見の「明」があること

 4.一人では何もできない
  すぐれたリーダーが居ること
  必ず、側人がつく

 5.原子力の分別と融合もある
  どちらが強いか

 6.島津義弘の幕僚
  「茶道の、和と力」


●直 感

 人力を超えた、心身を尽くさなければならない


●勉強の極致

 苦労を知った方が良い

 大敵は自分である

 自分に「克つ」、「勝つ」


 林影(りんえい)の

      渓光(けいこう)    静かなる如し


●あとから来る人に伝言して行かなければならない

 悠久な時中の中に消えていく

 まず1番 自分がどう生きるか  自分が歴史をつくるのである。

 今日に 自分の過ぎたことは、自慢してみても、悔いてみても、済んだことである。

 良かろうが、悪かろうが、何にもならない。

 これからのためにが 大切である。

 生死の境におもふ
 今までに経験 体験したことは これからのために糧になる。


●今日、ただ今が大事

 毎日、一日一日   本もたくさん読んだ   座禅も人の何倍もして来た

 何が残るかと言うと 何も残らない。


●鹿児島にもカゴシマの生き様がある

 ◇しゃべってはいけない、モノは言わないほうが良い。

 ◇知ってはならないモノを見る。

 ◇聞いてはならないモノを聞く。
  口を開かなければ精力もたまる
  言う時、見る時、聞く時、ためてたまる

 ◇言う者は知らず   知る者は言わず  真理である。


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源氏の兵法 引用掲載

 投稿者:fuusan  投稿日:2010年 5月 4日(火)19時30分51秒
返信・引用
  源氏兵法

  弓馬剣撃の法は、清和源氏の祖である源  経基より始まる源氏の武門である。
平氏のそれと区別するため源氏兵法と称され、代々相承された。

  弓武門の系統は、

  源  経基  --  満仲  --  頼光  --  頼義  --  義家  --  義光と
続いた。

  源  義光は「龍虎秘巻」を研究し、「龍」は武、「虎」は文、「陰陽は元之一
気なり」と説かれているのは、自然の理気と人の気を合わせて集中することが兵
法の極意であると考えられて、秘伝として伝えられていくのである。


    <龍・虎秘(二)巻>

  堆古天皇の頃に創られた「龍虎二巻」は、気の奥儀を説き、道の真理を説き、
天・地・人の三位一体、文武人道を説き、森羅万象(宇宙)神人合一を説く秘伝
書である。  これは人と気、文と武の一致を意味する。

  「龍之巻」には、「陰陽両気は勝負なり、陰勝てば陽退き、陽勝てば陰退く、
陰陽は元是一気なり。  其一気養い志を用いれば(気を通ずれば)、即ち天地の
神明と雖も移(天地と一体)これを生得(会得)すれば強勇(強い者)と雖も豈
恐るるに足らんや。

  是を以て兵法と称し、道に入り古人の兵法を学ぶこと。  気を磨く者、日月の
明なるが如し」とある。

  「虎之巻」には、「来たらば則ち迎へ、去れば則ち送り、対すれば則ち和す。
五五の十、二十八の十、十九の十」とある。

  原文は漢文で、ここに記したのは要約であるが、古来より秘伝とされ、現在で
も「宗」を受け継ぐ者は口伝えで暗記しなければならないものである。

  秘伝、口伝、身伝によって、門外不出として相承され、続いて行くのである。
義家以後実朝まで源氏の宗家は続くが、義朝に相承された龍虎二巻の秘巻は鬼一
法眼にあずけられ、法眼によって源  義経と7人の僧に伝えられた。  そして、
義経は、それを鹿島神宮に奉納したと伝えられている。

  「龍虎」の秘巻は兵法の奥儀である。  道場を開かず、野外での立合組太刀で
秘伝主義をとり、現在のような月謝を取って門人を多く集めて生活をするような
ことはしなかった。  武術は武士の心得として身につけるもの、とされていたの
である。
 

虎之巻 二巻 引用掲載

 投稿者:fuusan  投稿日:2010年 5月 4日(火)19時29分28秒
返信・引用
  島津氏系譜略(新薩藩叢書)

  齊興  嘗先世系譜ヲ覧閲シ  暦代ノ生年卒時及名號官爵等オ記載シ  其傳中  大要
ヲ摘テ  系譜略一巻ヲ撰述シ  採覧ニ便ス  而始忠久ヨリ  齊興ニ至テ  二十七世暦
數  凡六百年餘ノ  久シキ治亂興廢  挙テ數フヘカラス  其間  事秘スヘカラスシテ
亦秘スヘキモノ少ナカラス  故ニ  別ニ  一巻ヲ撰シ  其機密ニ預ル事ヲ記シ  上下
二巻トス



  [虎巻秘法傳來之要訣]

  抑虎巻ノ秘法ハ上古  瓊々  杵尊ヨリ出テ  代々ノ帝王相続ノ要訣ニシテ  清和天
皇マテハ  即位ノ日  三種ノ神器ト共ニ此秘法ヲ譲ラセ玉フ御事ナリ  陽成天皇御多
疾ニ渡ラセ玉ヒ  法ヲ修シ給ヒカタキニヨツテ  第六皇子貞純親王ノ御子  經基王ニ
源姓ヲ賜フノ時  此法ヲ授ケ  此時  虎ノ巻ト名ケ賜フ

  經基王  男山ニ至リ  此法ヲ修スル事  凡三年  能其妙處ヲ悟リ  其子満仲公ヘ傳
ヘテ  永ク源家ノ正統傳授ノ秘法トハナレリ  満仲公  其孫頼義公ニ傳ヘ  頼義公
其子義家公ヘ傳ヘ  尤其妙ニ通シ  堀川帝御脳マシマシ禁中屡怪異ノ事トモアリシ時
義家公ニ命セラレ  此法ヲ修シテ  御脳忽チ御平癒アラセ玉フ

  義家公ノ孫  義朝公法ヲ傳ヘ  其子頼朝公ニ授ク  頼朝公亦其極處ニ通シ  速ニ平
家追討ノ功ヲ成シ

  遂ニ  始祖忠久ニ授ケ給ヒソレヨリ  當家世々傳來シテ  嫡々相授ケ  次子以下其
傳ヲ得ルコト能ハス

  十六代義久ノ時ニ至テ  男子ナク  イマタ其嗣ヲ定メサルノ處其弟  義弘  元龜二
年壬申五月四日  伊東氏ノ軍ヲ木崎原ニ敗リ大ニ勝利ヲ得シカハ

  義久  喜不斜  嗣子トナスヘキノ深慮アルニヨツテ  此秘法ヲ義弘ニ傳ヘ  其後
義弘  守護職トナツテ  大ニ英名ヲ振ヒシコト  大法ノ驗ト云ツヘキナリ

  十九代光久ノ時ニ  當ツテ  従幕府此秘法傳來ノ事ヲ  尋ラレシニ  絶テナキヨシ
ノ旨ヲ  答フ

  是レヨリ後  密而  改テ  直看經法トソ  稱ス至于  今  齊興  廿有七代  六百有
餘年  經雖雖  旡少斷絶傳來堅固ナリ雖  然自  古之授ニ  不當生  質之者於レ
有レ  之者雖世代續不傳二   秘法ノ作法   一只傳書迄  傳之於修行  以二名代之臣ヲ
一此事最極甚  深秘事也云々

  齊興  竊ニ按スルニ  忠久文武道ヲ學  鎌倉傳來ノ武藝  連綿トシテ  今猶  傳ル
モノアリ  就中  源家傳來  虎巻ノ秘法ニ  練達シ  其法ヲ  子孫ニ傳フ宣ナルカナ

  百世ノ祖タルヤ  抑  虎巻ノ秘法ハ  武家第一ノ要訣也  故ニ  代々  コレヲ練習
シ  齊興ニ至テ  其法ヲ傳ヘ修スルコト  厳密ナリ  其由レ來  及  愛染明王坐像
業ノ  事ハ  附録ニ詳ナリ


※秘話    川上矢吉霊山先生が過日、御父上翁介先生より承られた御話の要約。
  或る日突然、29代忠義公より呼出しが有り、急いで伺うと殿中の表間の控え部屋
に通された。
  何事かと、しきりに気を揉んでいると安藤輝氏の母上(島津忠義公の乳母)が出て
来られて「心配するな」と云われるのでホッと、していると恐れ多くも直答を許され
御面前に出た。
  問曰「由縁有て惟新公(義弘公)より四郎兵衛家に秘伝する島津家伝来の鎌倉流武
芸とは何か、一切を示せ」
  答曰「畏み申し上げます。恐れくも鎌倉流武芸とは、一言にては申上致しかねます
が、私家にては『影の流れ』と称して琵琶法師(盲目)・虚無僧・修験者(山伏)な
ど裏島津の総元締めとして諜報とその機構を秘して一子相伝致して参りました。
  また、代々の御当主様に秘匿の裡に御藩祖忠久公が、源  頼朝公の御命により学ば
れた義経公の武芸即ち鎌倉流武芸を御伝授申し上げて参りました。」
  この後、総てを御話申し上げて「影之流」の真を会得されるまで御伝授致したとの
ことであった。  事実を動かす事は出来ない。  信じるも疑うも自由である。  要は
判断力の問題だけだ。
  島津家は、約800年の歴史がある。  現代に残る殿様の写真、刀の拵えなど、ほ
とんどが約400年伝わる御家流(示現流)と称するものに定められた様式で無いこ
とは事実である。  これは封建制度のもと厳しく定められ、命のやりとりをするのに
他流の拵えをする事等、とても考えられない。
  さて、とても重要な事は矢吉先生の仰られた、この型は一切、門人には教えること
は出来ないし、もう忘れたとの事にある。  また、本来なら「影流」であるが、「影
之流」としている訳は、「影の流れ」の印を含むのである。  更に今日では基本之型
としている「先・掛・切返」には奥が、あるのである。  これを会得した者には自然
と「奥秘剣」が解るのであると云う。
 

影之流と倭寇 引用掲載

 投稿者:fuusan  投稿日:2010年 5月 4日(火)19時27分35秒
返信・引用
  陰流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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陰流とは、室町時代、文明十五年(一四八三年)頃、伊勢愛洲氏の一族・戦国武将愛洲久忠が編み出した武術の流派で兵法三大源流の一つである。「影流」とも。

「愛洲影流(愛洲陰流)」「猿飛影流(猿飛陰流)」も「影流(陰流)」の別称である。ただし、猿飛影流は久忠の子と言われる愛洲小七郎が陰流に工夫を加えて名乗った流派とされている。また、新陰流系の流派に愛洲陰流を名乗る流派が存在する。

目次 [非表示]
1 概要
2 陰流の起源に就いて
3 武備志の影流之目録
4 「陰之流 私」に就いて
5 陰流の伝播
6 参考文献
7 脚注
8 外部リンク

概要 [編集]
この流派を基に上泉信綱が新陰流(新影流)を開いた事で有名である。「撃剣叢談」やいくつかの系統の新陰流の伝書に依ると、上泉武蔵守に「影流」を伝授したのは二世愛洲美作守宗通(愛洲小七郎)となっている。新陰流では最初に学ぶ事になっている「燕飛」は陰流の「猿飛」であると伝承されている。

陰流自体は江戸時代以降伝承が少なく、文献上で元禄年間、松下見林の「異称日本伝」で紹介された「武備志」の「影流之目録」で「猿飛」「猿回」「山陰」が、天保年間刊行の「撃剣叢談」で「武芸原始 影流」として言及されていることなどがある。

陰流の起源に就いて [編集]
室町時代長享の頃(一四八七年頃)愛洲移香斎(あいすいこうさい)久忠が開いた剣術の流儀。愛洲影流ともいう。

愛洲移香斎八代の孫、平澤通有が元禄年間に記した家伝「平澤氏家傳」に依ると、愛洲移香斎久忠は伊勢国・愛洲氏の一族で、享徳元年(一四五二年)に生まれて名は久忠、日向守を称したという。生来刀法が得意で諸国を巡り、三五歳の長享元年に日向国鵜戸大権現の岩屋に於いて頭の上で香を焚く修行と三七日の祈祷を行って霊験に依り極意を授かったとある。

元禄元年に儒医松下見林が「異称日本伝」で明国の「武備誌」記載の「影流之目録」を一部紹介した。目録には「猿飛」「猿回」「山陰」等の太刀名がみられる。愛洲移香斎第二世愛洲宗通の門人上泉伊勢守信綱によってこれ等の一連の技は改良され、新陰流の「燕飛の太刀」として継承されている。愛洲移香斎久忠は天文七年(一五三八年)没、年八十七歳と記されている。

江戸時代になり、陰流は永禄七年の愛洲宗通・修理亮宛佐竹義重の起請文に依り、兵法指南として佐竹氏に仕え、同家中(江戸時代は秋田)に道統を残した。

参考文献

日高繁高 「本朝武芸小伝」
下川 潮 「剣道の発達」
大森 宣昌『 秋田平沢家蔵陰流剣術伝書の一考察』 立正大学教養部紀要(20)
新陰流源流考 岡田一男 陰流(猿飛)の源流についての考察。
武備志の影流之目録 [編集]
江戸時代元禄年間に大阪の儒医松下見林が「異称日本伝」で「武備志」所載の影流の目録等を紹介した。

武備志では、戚継光が辛酉の陣上(一五六一年)で和寇からの戦利品として「影流之目録」得たと記されている。

愛洲久忠が命名した「影流」は常陸国太守佐竹義重公の兵法指南として仕えた二世愛洲美作守宗通(愛洲小七郎)の時、「陰流」の「陰」に変わっている。[1]。

天保年間刊行の源徳修の「撃剣叢談」では「新陰流の古き免許状の記せる所を以って字を改む」として「武芸原始 影流」と「巻の一」に記載され剣法の源流とされている。
 

川上四郎兵衛忠兄 墓前祭

 投稿者:fuusan  投稿日:2010年 4月17日(土)22時43分9秒
返信・引用
  敬天舎同人で影之流の稽古をなさった方や
影之流研修生および門弟の方で
御都合のつく方は参列をお願いします
 

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