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コメント有り難うございます

 投稿者:北極星子  投稿日:2010年 9月22日(水)19時30分12秒
  お返事を下さったことへの御礼が遅くなってしまい申し訳ありませんでした。
ご指摘、大変勉強になります。心からお礼申し上げます。

議会を中心とした政治の重要性については、ご高説の通りと存じます。研幾堂先生のご意見は、そうした議会を中心とする政治の原理的な重要性は、たとえば国家の独立性にすら優越するというということを含んでおられると理解しました。愚考するに、そのような真に国民を代表する議会であれば、国家の主権をみずから放棄する決定すらなしうるし、それは正当といわなければならないだろうということから、その判断は全く正しいものと考え、小生は同意します。

ただ、いかにして議会を中心とした統治を作り出すかという点を考えるときに、まず外国勢力に頼って自己の支配を貫徹しようとする買弁勢力を駆逐することなしには、困難であると思われます。たとえば、現在のベトナム議会が先生の御眼鏡にかなうとはとうてい思われませんが、すくなくとも1960年から1975年にかけて、南ベトナム傀儡政権を駆逐して、統一選挙による議会を作り出すことは、当時のベトナムの人々にとっては最も重要な政治課題であったと思われます。

そして、官僚の統治が依拠している力の源泉のうち、最も重要な一つが、この外国勢力の圧力、マスコミ用語でいうところの「外圧」なるものであるように思われます。以前に研幾堂先生も論じておられた、かの悪名高い「年次改革要望書」のようなものも、官僚統治と外国勢力の利害の一致に基づく結託の一環であると考えられます。

思うに、太政官制に始まる官僚統治の機構において、天皇がそこにいた位置を、現在において実質的に占めているのが米国政府の意向であるとさえいえるのではないかとさえ思われます。このような植民地的な特殊な国家の存在形態が、国民を少なくともある程度には代表している議会が軽んじられることの根源にあるように感じられるのです。ポンチ絵風に表現するなら、アンクル・サムを奉戴する翼賛議会というのが、日本政治の半世紀であったのではないかという悪夢が私の脳裏を離れません。それが現実であったのだとすれば、それをどうすることもできなかったということに対して、日本国民の一人として慚愧に堪えません。

そう考えるときに、議会を中心とした統治を作り出すために何をすればよいのかという、性急な問いを追求せずにはおられないのです。そして、それは純粋に理論的な問題ではなく、まったくの泥臭い実用の問題であることを認めざるを得ないのです。そして、泥臭い実用の問題とすれば、これを担う勢力を特定し、行動綱領を提起し、組織化しというような、さしあたって20世紀的な手段を考えてみたという次第です。

「社会というものが、この日本では、一から見出され直し、そして一から作り上げられねばならないのです」というご意見は、立派なアナーキスト宣言であるとともに、心洗われる美しい主張であるなあと感銘を受けましたが、コミュニズムの洗礼をうけた老アナーキストとしては、やはりそれでは手段に欠けるように思います。レーニンが考えたように、ブルジョアの装置を武力によって破壊して、新しい(たとえばソビエトのような)装置で置き換えるという風にはうまく行かないものだとすれば、すくなくとも現代の日本においては、過渡的な議会権力を通じて官僚機構を実力を以て奪取しなくてはならないと考えています。そして、官僚機構への攻撃は内側と外側の両方から、そして、実力とイデオロギー的なヘゲモニーの両方から遂行されなくてはなりません。大学・組合等においても、同様であると考えます。もちろん、その過程において、個々の省庁や大学・組合等が、消滅し、あるいは、全く原形をとどめないような別の装置に組み替えられるということはありうることです。

このような過程は、普通に革命と呼ばれるような政治過程であり、現実の具体的な利益集団によって担われない限り、決して現実の日程に上ることのない空論に終わると、20世紀的な政治理論は教えています(この点、御異論あるかとも拝察しますが)。したがって、議会を中心とした統治を作り出すべく、意識的に活動する知識人は、既存の利益集団においてイデオロギー的なヘゲモニーを発揮して、その内部においても外部においても、それらの利益集団が議会を中心とした統治に同意し、それに奉仕するように働きかけなくてはならないと今のところは想定しています。

ちょっと話がずれてしまいますが、小生が、小沢一郎(偉人を呼ぶのにあえて敬称を略する意味でそうしますが)の構想力に驚くことの最たるものが、地方分権というスローガンであります。地方分権によって、自治体の議会が予算を握るようになれば、すくなくとも中央官僚の力の源泉の一部が地方議会の支配下に移るわけです。そうなると、地方の様々な利益集団は、利権を求めて盛んに活動するようになるでしょう。これらの形をなさない、言葉は汚いですが「有象無象」の力は、神秘の象徴である天皇を持ってこようとも、あるいは恐ろしいアンクル・サムをもってしても、まして仙石某や菅直人あたりがなんと叫ぼうとも、全く制御できない呪的な力となってわき上がり、中央官僚機構の支配をうやむやにしてしまうでしょう。これは、アナーキーですが、議会を通じたアナーキーですから、御指摘の通りで、全くの無秩序になるとは考えられません。このところ人々が、ひそかに「廃県置藩」と呼ぶ事態というのは、恐らくこのようなものとなるでしょう。まさに太政官制が打ち立てた何かを解体する過程です。

このときに、権力を分散するための過渡的な権力は、逆説的に強大な集権的な力の発揮を必要とするため、途中で挫折した場合には強力な反革命に転化する必然性があるということに注意が必要だと思います。指摘するまでもなく、挫折した革命から生まれる反革命は珍しくありません。ナポレオンがそうですし、スターリン・毛沢東も同様と考えて良いように思っています。それらと同列に考察すべき政治形態を、新しい形態のファシズムと呼んでしまったのは、たしかに正確を欠いたかもしれません。現在、日本国が置かれている状況では、領土的な拡張主義などは問題になり得ないわけですから。ただし、対米自立を中心課題とする統一戦線というようなものが成立しうるとすれば、それは右翼から左翼まで含む幅広いものになるでしょうし、そうなると研幾堂先生ご指摘のように、ともかく強力でさえあればどんな政府でもよいという傾向が出てきてしまうことはありうることです。その中では、たとえば、大阪府知事を名乗るチンピラ者のようなタイプの詐欺師による、おかしな似非民族主義が国民の支持を集めてしまうような可能性にも警戒は必要だと思います。特に、対米自立論を表面に掲げながら、裏ではアメリカと結んで中国脅威論も唱え、小規模な地域紛争を扇動するようなやり方が危ないような気がします。

御礼方々、漫然と愚論を呈しまして恐縮です。今後とも、ご指導ご鞭撻のほど、よろしく御願い申し上げます。
 
 

北極星子さんへ

 投稿者:研幾堂  投稿日:2010年 9月14日(火)21時06分6秒
   私に批評をと、お求めなさったのに対し、私の返事を記しましょう。まずは出発点の私との違いを述べます。次に、そこから御論への、私の批評を述べます。

 さて第一に、御論では、日本国の独立ということを出発点にしています。これに対して、私の議論の出発点は、議会というものを打ち立てること、日本国の政治が、議会を正に中心にして、そのあり方が出来上がっていくものとなること、ここにのみあります。これはすなわちまた、私の目標とするところでもあります。

 私が従属性とか属国性とかを、殊更に注意しないのは、国際関係にあって、外交を初めとしてどんな関係を作るかや、どんなところでの結びつきを持つかは、望む望まざるに関わらずに決まってしまうものがあり、これは自国の存立と安定とを目指す限りでも、いえ、そうしたことを根本に据えればこそ、そうなってしまうものであって、しかも、そうやって選択肢のほとんど無いところが、対外関係のかなりの部分をしめてしまっていると思うからです。

 これら国際環境が規定するものは、慎重に見極めねばなりませんが、しかし従属性や属国性に意識を向け過ぎるのは、その慎重さを損なうものとも私は感ずるのです。環境下で選ばざるを得ないものと、実力により選び得るものとは、およそ様々な観点や立脚点、また、持つところの現状認識や、思想・信条やにより、その判断や評価が一定のものにはなりません。そして、その不特定のところから出発して、一国のあり方を見つけ出す手順では、結論もまた、一定のものとはならないと思うのです。

 例えば、そうした議論では、独立を目指すとなれば、独立する気概や意欲、そしてその為の実力行使を決断した政府であればよい、それはまた、そうした強力な政府であればよい、あるいはそういう政治家(指導者)に権力を与えればよい、かような結論でも十分でありましょう。すなわち、日本国にあって、どんな政治をもたらすのか、このことを発見させずに展開出来るものなのです。リベラリズムなり保守主義なり、あるいは社会民主主義なり、そうした立場からの、どんな政治が望ましいのか、これを論ずる必要の無いものとなるのです。

 私が思いますに、我々それぞれがその発見に勉めるべきは、あるいは、それぞれが議論を立てて示すべきは、いかなる政治信条・政治思想からして、かくかくの政治のあり方が望ましいのか、より良いのか、そして選ぶべきものなのか、このようなことどもの発見であり、これらを示す議論でありましょう。そして、やはり私が思いますに、我々が実現すべきは、また、それぞれがかかる意見に互いに注意と配慮を払い、そして尊重を与えるような社会であり、そして、かような社会における意見が、政府の為すところとなる政治、すなわち議会政治でありましょう。

 そこで、日本の政治のあり方や方向性やに、深く強力に関係している人々、これを支配層とも、エスタブリッシュメント、あるいはエリート層とも、どう呼んでも構いませんが、こうした人達と、こうした人達がその影響力を行使出来るメカニズム、統治機構上のそれや、何らかの社会的装置によるそれやとを、私が批判するのは、彼らの対米従属性や、属国的国家運営、あるいは管理政府的な姿勢の故にではなく、彼らの政治の形成の仕方が、統治機構の運営の仕方が、議会という制度に従ったあり方にないからです。議会を中心にした政治のものでは全然にないからです。

 私が見出したいと思うのは、独立ということから引き出される統治のあり方ではなく、議会が中心になって営まれている統治のあり方です。ところで、こう記すことで、私は独立ということを考えていない訳ではありません。独立ということを、別の方向から言っているだけなのです。議会が中心になるとは、議会に代表を送る権利を持つ人々、すなわちこの国に住む人々によって、統治が形づくられることであり、それはまた、この国に住む人々が、主権者であることであり、私は、この主権性をして、この国の独立した姿のことを考えているのです。

 そして、この国に住む人々が、議会を中心にしての統治を作り出しさえすれば、それがどんなものであってもよい、と私は思っています。と言うよりは、それは私の決められるものでは無い、と言うべきでしょうか。でも私は、この国の人々が議会を中心にして、という点以外の、実際の統治の内容について、言い換えて、時々の政治の傾向については、私一個の立場なりに、是非や良し悪しの判断もするし、評価もするし、あまりにも非道いと思えば、そんな政策は、その政策を発想させる考え方は、その考え方の原理を提供している思想は、とても承認出来るものでは無い、あるいは、人間という存在より導き出される根本的や原理や価値に照らして、とても許し難いといった議論をするでしょう。

 議論というほどでなく、漠然とした感情も持つでしょう。例えば、日米同盟をあまりにも重視し過ぎる傾向があれば、意気地の無い、気概の無いと不愉快でしょうし、リベラルな政策が強すぎれば、もう少しまとまって協力しあってもと不満を覚えるでしょうし、社会民主主義が行き過ぎれば、こういう理に勝ったことを言い過ぎてもと興醒めするでしょう。しかし、基本は、どれであっても良いのです、もし人々に由来し、議会を中心にして出来上がる方向性が、政府のするところとなっている、そういう政治の姿であるならば。

 だがしかし、議会を通じて、議会を、そう「結節点」として、そうしたことになっていないならば、私は断乎として、まるごとにこの国の政治を否定致します。官僚の政府による経営的な行政で、この国の様々なことが統制され、命令され、社会の様々なあり方が、それによって出来上がってしまうようなことがあるならば、そこにリベラルなものが見出されようが、保守的なことが言えようが、社会民主主義的なことがあろうが、そのどれもこれもコミで、バカバカしい政治をしていると私は言い続けます。そうした政治は、人間という存在に反した、統治のあり方であり、国の姿であるとしか、私には思えないのです。

 こういう国のあり方が、この日本で出来上がったのは、起源を言えば私は戦前からと思いますが、完成態に近いものになったのは、戦後の高度経済成長期であり、それとして自覚されたのは、その成功を踏まえて、八十年代以降に、日本モデルというものが、日本のみならず、世界各国から注目されたときであると思います。そして、どうも私が思いますに、このモデルは、各国の実情に合わせてチューンナップされて、各国なりに構築されてしまってもいるようです。

 私は、こうしたところから、日本の人々が従来のシステムを批判して、それを破棄し、それに替わるものを作り出すことは、日本の人々の世界への義務であると思っております。今のこの日本のシステムは、昔言われたように、人間を不幸にするものである、そのように私も思うからです。世界各国で、このシステムに倣って、それを取込んだものを作り上げている今、そのシステムの欠点、いえ、その誤りを率先して明らかにし、それが取るべからざるものであることを、今我々日本人は、世界の人々に対して告げ知らせるべきであると思うのです。そして、それをもっともよく出来るのは、それを身を以て知っており、それに苦しめられている日本人自身であるとも思うのです。

 それには、従来の日本システムに代わるものを、あらたに見出し、構築せねばなりません。ここにあって、大学教授を初めとする人々は、あまり参考になることを提供しておりません。彼らは、日本システムの中で、彼らの知識と理論とを身につけ、それに即し、その連関の中で、そしてその発展か洗練かを見出すことにのみ、その能力を揮っております。政治、法律、経済、その他の分野の学問は、議会から牽制されたり、抑制されたり、あるいは監視されたりしないで、単独に屹立する政府が、その強力な権能を、ただ自己自身のみで見出し、設定する方向に向かって行使していく、こうした政治のあり方を前提にして出来上がっています。

 彼らは、それを疑うことを致しません。この前提に溯って、それを批判したり、検討したりすることは、それら諸学問の自己否定でしかないのです。そして彼らは、どうも私が感じるところでは、それらの理論を批判的検討することが、自己自身の否定になると思い込んでいて、そうして、それらを原理的に再検討することなど決して思いもしない人達であるようです。彼らは、官僚が自己の誤りを決して認めず、責任を絶対に取らないのと、まったくの同類の欠落者であり、全面的に同質の欠陥物であるかのようです。そして、官僚と学者達と、この両者は、日本の人々の多くに取っては、絶えることなき、尽きることなき災厄そのものであり、彼らによって寧ろ我々の多くは、絶望に向かわされ、そして消滅に至ることになるでしょう。しかしまた恐ろしいことに、彼ら官僚と学者は、国家の主人たる自覚をますます強めているようです。

 そんなことより話を進めましょう。労働組合、農協、生協などの〈社会的組織〉については、より深く御一考を求めたく思います。と言いますのも、これらは戦前、官僚の指導する体制構築あって、官僚の行政部(官僚の政府)と上手く連絡しあうように活動内容や、意義付けやが為されたものでして、戦後もまた、官僚による統制的、指導的行政運営を支える働きをしてきたものです。農協は、その最たるものですし、労働組合も、欧米でそうしたものが構想されたのとは、日本に入ってきた後、そして戦後、大きく変容してしまっています。

 このあたりをきちんと見極めませんと、それらに社会的団体として活躍を求めることは、そのままに官僚の指導的体制を強化することにつながってしまいます。また、それら〈社会的〉団体それぞれの、政治方面の活動を集約することが、自民党という〈政党〉的なものの役割の一つだったのです。もう一度言いますが、従来のそうした〈社会的組織〉をそのままに依拠する方向性は、下手をしたら新しい自民党をもたらすことになるのです。

 いささか途方も無いことのように聞こえるかもしれませんが、社会というものが、この日本では、一から見出され直し、そして一から作り上げられねばならないのです。この社会とは、政府の権能に対応して見出されるものでなく、官僚団による経営的行政の目的に合わせて存在するものでもなく、その構想に由来して形をなすものでなく、これら統治権とも、行政の命令とも無関係に、人々の活動によって生じてくるし、出来上がってくるし、変化していくもののことです。

 この社会にあって、人々がそれに従っている慣習、規律、価値観等々と、それらによって出来上がっている統合性、共同性、関係性等々とこそが、我々によって反省的に見出され、検討と批判を経て洗練され、そして政府の従うべき規律、強く言って政治の原理となるべきものと私は考えております。我々は、政府による規律付けや、もっぱら政府による統合やから、離脱すべきなのです。そこから離脱して、我々の社会の下に、政府を置かねばなりません。そして政府をして、かような位置づけのものにする政治的装置、あるいは、こういう関係を反映しての政治制度が、議会なのです。

 社会を再発見し、議会を機能させさえすれば、官僚の政府と、それと同一線上にある大学教授ら指導者とによる統制や規律に服さず、それらを振りほどいた日本の人々が、国家としての統合を失ったり、無政府状態になったり、あるいは何かしら衆愚政治やファシズムをもたらすという可能性は、私はまったく存在しないと思います。けれども官僚や大学教授ら知識人達は、そうした状況を、今列挙したような言葉で言い表すし、そうしたものとして論ずるでしょう。

 なるほど、そういう人々の中から、例えばファシスト的主張の人が現れるかもしれません。しかし、官僚の権力や知識人らの指導とに無関係に出現するファシストが、実際に政治権力を握るまでに至ることは、日本の政治環境ではあまり可能性があることだとは、私は思っておりません。ところで、ファシズムの理解には、色々とありますが、私はパックストンという学者の捉えるところでもって理解しております。そして、もし日本の政治がファシズム的な性格を持つようになるとしたら、どういった要素と経路とによるか、近いうちに、あらためて述べてみたいと思っております。

 さて私の立場は、ここまで述べてきたことでお分かりのように、議会中心の政治を目指す、というものです。そして、これを中心にして、一方に政府があり、他方に人々があります。一方に、政府の権力があり、他方に人々の、いわば目に見えぬ、形をなさぬ権力があります。従って、権力の形態や性格やに関する注意は、この両者が、人々から始まって、議会を通じて、政府へと終結するという順序で、いかに実現されて行くか、これを見るところに向かいます。

 従ってまた、私にとって結節点は、議会なのです。この結節点としての議会の機能、役割を上手く見出して、それに基づき権力を構築していくことを考えております。そして、政府の形をした権力は、人々に於ける権力を顧みて、そこから構築されるもののことを考えております。また別の言い方をすれば、人々に於けるそれと、議会の機能と役割とが組み合わさって、その結果出来上がるものが、政府の形をした権力であると考えております。

 この権力論にあって、不当な権力や、欠点のある権力やが生じる原因は、人々に於けるそれと、議会の機能と役割とが、それぞれ、適切に見出されなかったこと、従ってまた、適切に運用されなかったことにある、と捉えます。そうした原因による、禍々しい権力のどんなものが生ずるかは、実際に議会中心の政治になってみなければ、私には何とも言えません。少なくとも、必ずファシズムになるとか、あるいは衆愚政治になるということは、官僚や知識人らが盛んに口にするほどのことは無く、むしろ極めて可能性の低いことであると思っております。

 何よりもそれ以前に、議会が議会として機能していない現状においては、議会をそうやって否定して、それはすなわち人々の権力(主権性)を無視することですが、そうやって、官僚の政府が、自己賦与する権威と権能と意義付けによって、単独に、自律的に、そして他を圧して、統治権者然と行使している権力が、今現在存在しており、そして我々を圧迫しているのです。まずこれをどうにかしなければなりません。それをどうにかしていく過程が始まってから、その先のことの思い巡らしも始まると思います。
 

研幾堂先生、はじめまして

 投稿者:北極星子  投稿日:2010年 9月11日(土)14時23分5秒
  以前より、貴殿のホームページを拝見しております。
最近の民主主義を巡るご発言、誠に貴重と存じます。
ますますの御活躍を祈念いたしております。
さて、 小生こと
昨今の情勢に黙っておることができずに、卑小の身を顧みず、
つまらない小論を提出させていただきました、お目汚しですが、
よろしければ、ご指導・ご叱正お願いいたします。
http://www.asyura2.com/10/senkyo94/msg/654.html

http://www.asyura2.com/10/senkyo94/msg/654.html

 

返信

 投稿者:アビス  投稿日:2008年12月28日(日)02時17分15秒
  大変遅れました。すいませんでした。それにしても、大変ご丁寧な回答ありがとうございました。とても参考になりました。とはいえ、とても内容が難しく、どれほど理解できたかあやしいものですが・・・。あれから、いろいろ調べましたが、中世の哲学はとても複雑で、レポート用の安直なスタディではダメなこと沢山ありましたが・・・。やはり、ラテン語など勉強しないと、ダメみたいですね!?プラトンやアリストテレスなどのギリシャ古典の教養も必要なようですし。。。とても追いつきません。「無知が罪の原因(cause)」だとするソクラテスの議論がありましたが、なんか、それも関係あるのかどうか。。。決着つかずのまま止めてレポート出しちゃいました。fair(可)でしょうけど。。。でもとても親切で感謝の限りです。とりあえず御礼まで。どうぞご自重くださいませ。  

アビスさんへ

 投稿者:研幾堂  投稿日:2008年12月 4日(木)07時51分41秒
   こちらこそ、初めまして。HP の方を御覧になっていると言われると、それをほっぽっているのが、どうも恥ずかしくなります。

 そんなことよりも、お尋ねのことを。あなたが、大学生だろうというぐらいのことしか分かりませんので、トマスのことや、そも哲学的議論に関して、どのくらいの知識や理解をお持ちなのか、その大学生ぐらいの人というのを念頭にして、少し書いてみます。もしかしたら、外国の大学かもしれませんが、してみると、まるで高校生に向かってものを言っているとお感じになるかもしれませんが、あしからず。それに、ここしばらくご無沙汰だったトマスのことを、もともとあまり深い理解があるわけでもないのに、突然に聞かれまして、ちょっと頭の巡りが・・・、その話題らしくなるかどうか。

 で、言い訳は終わりまして、まずは余計なことから書かせて下さい。中世の哲学的議論の特徴の一つは、あなたが論理学の教科書を確認してみたくなったことでお感じのように、或る事柄を論ずるにあたって、たんたんとそれに就いて述べるのでなく、また、その特定の事柄のことに終始するのでなくして、推論の形式を踏まえることを強く意識して書かれています。中世では、およそ真な命題が言われるのは、どんな論理にあったならばなのか、ということが、特定の事柄の記述や説明でなくして、そも一般的に広く探究されました。そしてそうやって見出した論理形式に即して、何か特定の事柄を述べるという態度が、彼らの議論の仕方となったのです。それでまた、何々である「条件」は、何々の「場合」であるというような表現が、何か命題の「裏」を述べているように、あなたに感じられた訳です。

 ところで、中世哲学の議論が、そういう具合に、論理形式に枠づけられているからと言って、ただに形式的に正しいことを言わんとしている、というものでもないのです。その主張で扱われている事柄に関して、やはりその事柄自身がどんなものであるかを、論者は捉えようとしているのですし、論者なりの理解や把握するところを主張しているのです。お尋ねのものに関して言えば、無知と悪しき行いと言われるものとがどう関係しているのか、というあたりが、トマスの捉えようとしていることだとは、まずは思い浮かぶでしょう。そしてこれは更に深めねばなりません。

 と、このあたりで、ようやくご関心のところに向かうことになるのですが、やはりその前に、少し回り道しましょう。あなたが、トマスの主張は、命題の裏を持ち出しているだけではないのか、という疑問をお持ちのようですから。さて、確かに、裏を言っているだけでしたら、それは必ずしも真となる訳ではありませんから、おっしゃる通り、トマスの議論は不十分なものである、と言わねばなりません。しかしながら、トマスのものとしてお示しになった、

「無知が悪行の弁解となりうるための条件は、もしその無知がなかったら問題の悪行を犯すこともなかっただろう場合である」

は、もし裏の命題という捉え方で話を進めるならば、裏の命題を出しながら、かつ、それが真である為の限定を与えているもの、と言うのがよいと思います。

 そうしておいて、では、元の命題はどんなものか、それを確認することから始めましょう。「無知」による「悪行の弁解」とありますから、弁解を抗弁として、知らずして行なったことは、それを罰することは出来ない、とするか、あるいは、弁解を弁護と取って、知らずして行なったことは、悪しき行いとは言われ得ない、というあたりにしてみてどうでしょう。そして、これを裏にすると、どうなるでしょう。知っていて行なったのだから、それは罰し得る、あるいは、知っていて行なったことは、悪しき行いと言われ得る、となるでしょうか。

 この裏命題を見て、どう思いますか?。そんなに間違ったことでもない、という気がしますか?。ところでこれは、トマスは裏の命題を言っているのだというあなたの捉え方に従って、同じことをした訳です。で、ここからして、トマスの主張は、取り立てて注目すべきことを言っていないということにもなるでしょうか。さてしかし、命題の裏は、必ずしも真ではなく、真なるものとするには、何か条件をあらためて附すか、制限を与えねばなりません。ですから、ここは何かある事柄を、はつきりと絡めて考えてみなければならないのです。まだるっこしいことをせずに、さっさと言ってしまいましょう。それは、悪、ということです。つまり、「無知」とは、〈悪を〉知らないという意味を補ってみるべきものなのです。さらにこれは、悪を知っているとか、悪しき行いと言われるものを知っているとか、そうした形にもなりますし、こうしておいて初めて、トマスが議論している事柄を収めとっての理解に進めることになります。

 すなわち、トマスが捉えようとしているのは、あるいは主張しようとしているのは、端的に言えば、悪とは何か、ですが、これをお尋ねの主張に合わせて言い直せば、悪を知っているならば、人はどう行動するか、ということを捉えようとしているし、主張しようとしているのです。そしてこれをもう少し扱い易い形に言い直せば、・・・いえ、もう扱い易いなどということは、ここからは全然期待出来ません。ここから先に進めば、注意深く見極めていかねばならないことどもが、底知れぬ深淵、稜々たる山並み、漠々たる広野の如くに、我々の目の前に広がっているのです。

 ・・・と脅しておいて、最後に、その形を与えることにすると、トマスは、無知故に罪無しと言うに対して、それを裏の命題のように、無知でないならば、罪あることをしない、と言い換えることで、知っている人は罪悪を犯さない、ということを主張しているのです。これを似たような形で言って並べれば、悪を知っていて、悪を行なう人は居ない、あるいは、それが悪しきことであると知っていて、人がそれを行なうことは無い、というものになりましょう。更にもっと別の形にすることが出来まして、それはすなわち、善を、あるいはそれが善きことであると知っている人は、それを行なう、しかも、その反対のものは、つまり悪は行なわないのであるから、善なることしか行なわない、という主張です。(この、「悪であると知っていれば、人はそれをしない」、ということが、上の方に言った、裏にしてしかも与えた「限定」にあたります。人が悪を知っているとはこういうことだ、という悪あるいは善の知識、またその知識を持つものとしての人間の理解を踏まえて、初めて、無知故の弁護は解され得る、という訳です。)

 今の最後のものは先に進み過ぎましたから、戻りまして、あなたは、それが悪しきことであると知っているならば、あるいは分かっているならば、人はそれを行なうことは無い、という主張を、どう思いますか?。人はそういうものである、とどのようにしたら言い得ると思いますか?。悪とか、あるいは善とか、それらはどんなものでしょうか、また、それを知っているとはどんなことなのでしょうか?。しかも、それを知っているならば、今述べたようなあり方しかしない人とは、どんな存在だと言われるべきでしょうか?。あるいはどんな存在と捉えたならば、そのようなあり方しかしないものとして人を理解することになるでしょうか?。

 このあたりのことどもは、あなたの考えねばならないことです。・・・トマスに関するレポートですから、トマスがこれらのことをどう考えているのか、それを踏まえながら書かないと、求められているレポートらしくはならないでしょうけれども、それはあなたのお調べになるところとしまして、それ以前に、私として強調したいのは、まず自らして、今述べたようなことどもをどう思うか、よくよく見据えるようにして下さい、ということです。それは、トマスが論じていることを参考にしながらでも構いませんし、また別の哲学者のものでも構いません。でも、まずは自分自身を顧みながら、悪、あるいは悪しきことを知っているならば、自分はそれをしない、また出来ない、ということが、どう言われるものなのか、ここへの理解や納得を試みて下さい。ここであなたなりに得るものが無いならば、トマスや他の哲学者の言うところから、あなたが得ることの出来るものは何も無いのです。

 更に、その考えなさいと言ったことを、どのようなことどもに分析して、それらがどう並べられていく筋道を行くか、まことに煩瑣で難渋なこともありますが、とりあえずはこのぐらいまでを、私の答えといたしまして、そこになにほどかあなたに得るものありましたら、それをお取りください。
 

トマスについて

 投稿者:アビス  投稿日:2008年12月 3日(水)14時09分56秒
  始めまして。いつもHP閲覧させて頂いています。本日は大学のレポート分からず訪問させていただきました。それは聖トマスとかいう人の(有名だという)ある原理について説明せよというものです。お時間ありましたらアドバイス下されば幸いです。トマスの「無知が悪行の弁解となりうるための条件は、もしその無知がなかったら問題の悪行を犯すこともなかっただろう場合である」という主張を説明するというものです。常識的には、まあそうだろう、と思えなくもないのですが、でもよくよく考えて、高校の数学Aの論理を参考にして考えるとオカシイような気がするんです。というのも、「もしその無知がなかったら問題の悪行を犯すこもなかっただろう」は「無知が悪行の弁解になる」の単なる「裏」のような気がするんですが・・・?だとすると論理的に間違っているように思えるのですが・・・。でも「弁解、excuse」に関しての主張であるということ、条件を述べている後ろの部分が仮定法過去(英語で)の文であることを考慮すると、そう単純でもないような・・・。どうか適切なアドバイスいただければ、と思います。宜しくお願いいたします。これから寒い日が続きます。どうぞお体を大切にこれからもご活躍下さい。  

(無題)

 投稿者:claires  投稿日:2008年10月14日(火)11時56分25秒
  研幾堂日記のデモクラシーを読ませていただきました。自分は人と共にどんな社会で生きていくことが幸せなことなのかと考えておりました。13日の朝日新聞の一面の囲われた街という記事を読み、悲しいような複雑な気持ちになりました。それぞれの立場の人の意見が述べられていますが、人が生きていき、病み、死んでいく場所、そこでの多くの豊かな関わり、差し出しながら受け取っていくものの豊穣さ、そこでこそ人と共につくりあげ、自分や自分の家族が養われていく社会そのものを考えていかなければならないのではないかと思ったからです。同じような収入と価値観をもつものがゲーテッドコミュ二ティーに暮すということだそうですが、その安全な箱の中からは、自分が生きていく社会のデモクラシーを考え望むことはなかなか難しいように思われます。この社会は、たとえ自分が何も持たず無力であっても、この社会に生きていくかぎりは共に、養われ、育ち、学び、働き、考え、望み、関わり、与え、受け取り、そしてここが良かった、あなたと共にいて幸せだったと最期に感謝し、やってくる子供たちの手に預け渡すところでありましょう。  

私説公開

 投稿者:石垣眞人  投稿日:2008年10月 1日(水)14時43分10秒
  「平成の黙示録」という表題の私説を公開しています。
http://makoto-ishigaki.spaces.live.com にアクセスしてください。
 

おたずね

 投稿者:せがわメール  投稿日:2008年 5月24日(土)22時00分49秒
  はじめまして。
以前貴方に過分な書評を書いていただいたことのある世川行介と申します。
その節はありがとうございました。

今回、思うところあって、貴方への連絡方法を探していましたが、わかりません。どうすればいいのでしょうか?
僕は現在、「世川行介放浪日記」というブログを開いています。そこからご連絡頂ければ幸いです。
ぶしつけな便りでごめんなさい。

          世川行介
 

トマスの件

 投稿者:MORI  投稿日:2006年11月10日(金)17時47分16秒
  CDロムは渋谷の哲学専門の洋書屋さんで見かけました。5万円程度だったと思います。インターネットでも簡単に検索利用できます。「寺子屋」とあだ名されるトマス読書会は山田晶先生のもとで数年前まで、南山大学神学院でありましたが、いまはもうありません。  

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